鶴ヶ城会館
会津若松城までやって来ました!
八重さんのお出迎えです。
大河ドラマ・八重の桜で有名な新島八重は、
幕末の会津戦争で銃を持って戦い、戦後は同志社大学の設立を支え、
日清・日露戦争で看護師として活躍した、「幕末のジャンヌ・ダルク」と称される女性です。
追手前西濠
追手門舛形
会津若松城(鶴ヶ城)は、日本で唯一の赤瓦の天守を持つことで知られる
東北屈指の名城(国指定史跡)です。
北出丸
椿坂(横手坂)
こちらではないですよ。
太鼓門跡
鶴ヶ城観光案内所
会津若松城(鶴ヶ城)天守
会津戦争で新政府軍にボッコボッコにされて、取り壊されましたが、
昭和の時代に復元されました。
武者走り
鶴ケ城稲荷神社/八幡神社
裏門跡
天守と券売所
赤べこがいますw
1384年に蘆名直盛が東黒川館を造営したのが始まりです。
1589年に蘆名氏を伊達政宗が滅ぼし、約1年間支配しますが、
豊臣秀吉に没収され、秀吉の信頼が厚い蒲生氏郷がで入封します。
そして、蒲生氏郷が本格的な天守閣を築き「鶴ヶ城」と命名しました。
しかし、蒲生家の後を継いだ秀行が若年だったため、
越後から五大老の一人・上杉景勝が120万石で入封します。
その景勝を討伐する為に徳川家康が会津征伐に乗り出しますが、
それをきっかけに関ヶ原の戦いが起こります。
結果は家康率いる東軍の勝利で、景勝は米沢へ15万石に減封の上で転封されました。
その後、蒲生氏が再び会津に戻りますが、1611年に会津大地震が発生し、
大被害を受けました。蒲生家は後継ぎが途絶え、再び転封となります。
賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤嘉明(秀吉の子飼い大名)とその子の明成が治めるものの、
お家騒動(会津騒動)の後に改易となります。
と、ここまではちょっとマニアックな歴史の話ですが、
1643年、徳川3代将軍の家光の異母弟である保科正之が23万石で入封し、
会津松平家による会津藩の統治となります。
会津藩は江戸幕府への忠誠が強く、幕末には最後の藩主の松平容保が、
京都守護職を務め、新選組をお抱えしたりしますが、戊辰戦争の旧幕府軍敗北後に、
明治新政府から朝敵とされていたので討伐対象となり、新政府軍が攻めてきました。
奥羽列藩同盟を結成し、新政府軍と戦うことになしますが、
激しい戦闘の末に破れ、会津藩の歴史は幕を閉じます。
入ります。
塩蔵
一層
鶴ヶ城の歴史と会津の遺産について展示してありました。
二層
城主の変遷と国づくりについて展示がありました。
会津の産業
三層
幕末の動乱と会津について展示がありました。
白虎隊についても紹介がありました。
白虎隊は、会津戦争において会津藩が組織した少年部隊で、
飯盛山にて、城下から上がる煙を鶴ヶ城が落城したと誤認し、
19名の内15名が自刃しました。会津戦争における悲劇として伝わっています。
館内は、撮影禁止エリアと可能エリアで分かれています。
四層
会津ゆかりの先人について紹介がありました。
松平容保
悲劇の最後の藩主として紹介されることが多いですが、
しかし、私の友人が「家臣に責任を押し付け、のうのうと明治を生き延びた〇〇カス」
と言い、私は反論できませんでした(´;ω;`)
八重の桜で見かけた方が多いですね。
山本八重(新島八重)が部隊を率いていたのはさすがにフィクションだと思いますが。
五層
東側
本丸跡
裏門跡
南側
本丸天守続櫓と奥には干飯櫓
西側
赤い瓦がきれいですね。
北側
太鼓門跡や北出丸が見えます。
そして、北西には
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